編集長 遠藤隆也


浅草の「雷おこし」にもあきたから、自分たちは自分たちで「町おこし」をつくろう、という訳でもないのだろうが、各市町村でさまざまな「町おこし」がつくられている。
「そりゃオメ、おこし違いだんべ」と、早速、外野席から、野次が飛ぶ。「そういゃァ“おこし”には腰巻きっツー意味もあったィなァ」
お説ごもっともと合点しつつも心の裡に芽生えてくるのは、長年「町おこし」なるものを追い続けてきた者の舌に残る、ザラッとした感触である。
この場合の「おこし」は、動詞「起こす・興す」の言いさしの形、連用形を名詞的に使った形であることは、言うまでもない。辞書などには「勢いをつける。盛んな状態にする」とある。
つまり、町を勢いづかせて盛んにする、という訳だが、「今ァ反対に、“興し”より“鎮め”る時代じゃねンかイ」との気分もなきにしもあらず。
これはなにも、「町おこし」などの話題を追い続けセコク広告を集めては糊口を凌いでいる自身の、身過ぎ世過ぎから出た気分ではない。
「町おこし」の先進地、大分県は湯布院を、観光地として全国区に押し上げた張本人、中谷健太郎さんの主張だ。
「静けさと時間をこんなにも失ってしまって、子どもたちにどう詫びていいのか解らない」と、氏は著書の中でのべている。
さて、思いがけずも話の枕が長く、かつ屈折してしまった。
中谷さんの本音は、町は盛んになりすぎると住みづらいし、いずれは見捨てられてしまう、との危機感からの言葉、なのだろう。
翻って上州を眺めた場合、各地の温泉地は賑わうどころか閑散としている。平野部の町の商店街のさびれようは度を越している。
従って、興らないのだから、鎮めようもないのである。
どうやら「町おこし」という考え方そのものに、無理があるようなのだ。舌に残るザラッとした感触とは、つまり、そういうことであった。以上のようなことからたどり着いた言葉に「つくる」があった。「興す」から「つくる」へ。
ここでは更に話を見えやすくする為に、ジャンルを、その土地の食べ物にしてみる。
働く人の町・太田市では近年“焼きそばの町”による町づくりを前面に打ち出している。なにかしら嬉しいような恥ずかしいような、複雑な心境になる町づくりだ。理由は「焼きそば」という食べ物が実用的な面 を持っている点にある。なんとなく、いじましく、どことなく菜っ葉服臭いのだ。
隣町伊勢崎市では、たぶん一昨年だったと記憶するが、伊勢崎商工会議所青年部が中心になって「もんじゃサミット」が開かれた。
要するに、市民が昔から食べてきた“もんじゃ焼き”を伊勢崎名物にしよう、との取り組みである。
これはイイ。ほのぼのとした遊び心があるのがいい。
「もんじゃ焼き」というとその発祥は東京・月島とか下町だとか、諸説があるが、伊勢崎での歴史も古い、とか。又、語源も、「文字焼き」だとか諸説がある。つまり、良く判らない、というのがこれ又いい。
従って、B級料理人として別の“顔”も持つ自身としては、見捨てておく訳にはいかず、早速、調べてみた。
結果として、次のようなコピーが生まれた。参考までに記しておく。
♪伊セ崎もんじゃにゃ具はいらぬ/だしとソースにカレー粉いのち/パリパリおこげがンめんさね
♪もしもどしても具を入れるなら/刻みキャベツに切りイカと/揚げ玉のみのシンプル路線/餅やチーズもいいかもね
♪粉はもちろん群馬産/新鮮魚貝でとるだしに/秘伝のソースが隠し味
♪イッサキもんじゃは弱火じゃダメよ/強火で焼いて待つことシバシ/こげ目ができたら弱火にね
♪イッサキもんじゃはゆっくり食べる/食べる分だけチットッツ/ヘラで伸ばして焼きつつ食べる/これぞもんじゃのイッサキ流
♪イッサキもんじゃにゃ二種類あるよ/舌もびっくり「あま」と「から」/「あま」の秘密はイチゴのシロップ/ああ、これぞ懐かし昭和の味さね

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