●前群馬県知事 小寺弘之さんからいただいた推薦文『上州を愛する人』からの抜粋
上州弁は、上州人の思考様式に裏打ちされています。 そして、上州の文化は、上州弁の上に成立しています。 遠藤隆也さんの上州弁の研究は、優れた方言の解釈であり、また、上州人の心理や
人間性の分析であります。 それは、あたかもピアノの調律師が、鍵盤を何回もたたいて音を出し、耳で聴き分 けながら正確な音を規定するように、上州弁を精微に研究なさっています。
優れた研究が出来るということは、研究者の胸の奥に上州をこよなく愛する気持が 存在するからだと思います。 こうした研究が、さらにすすみ、上州の文化が発展することを期待しています。
●本文見本
針メド・ケツメド
ドドメ
ビショッタナイ
針メド・ケツメド 「近頃は、ハーッ、目がきかなくなっちゃって、歳なんかいねー。針メドがめーなくって、針仕事もおっくーんなっちゃってこまったもんさね」
いつか、どこでだったか、セピア色に染められたふうになって甦ってくる昔日の風景のなかで、縁側に座った近所のオバアチャンはそう言ってククーッと腹の底で笑うのだった。
あれは、どこの家の縁側だったのだろう。広い庭があり、納屋があり、大きな二階建ての母屋の裏には竹薮があったりしたのだから、多分、農家の友達の家でのことであったに違いない。
相手をしていたのは、友達の母親、つまりその家の嫁さんだったのだろう。二人の間には、オコウコ(お香こ)とお茶が置かれていた。お香ことは香のもの、漬け物、つまりお新香のことを指している。しかし現在では漬け物といってもいろいろあるので、ニュアンスとしては沢庵のことやぬ
か漬けのことを意味していた。 「ところで今度の選挙じゃ○○さんが立つってー噂だがね」
「ヘェー、あの火の見の下の○○さんがですか」 大人たちの話をバックグラウンドに、私たちは只ひたすら、納屋の脇に積まれた堆肥から、釣りに使うメメズを調達していたような――。
釣りに使う四〜五センチ位までの小さなミミズをメメズと呼び、利根川などの本流で鯉や鰻を狙う大きなミミズのことはウタウタと呼んでいた。
しかし見付かるのは、どういう訳か巨大なウタウタばかり。 「ダメだいなー。桑畑のほうがちっちぇーのがいるかもしんねー」
そう言うと友達はパタパタと縁側のほうへ走って行き、お香この側のセンベイをガッと掴んでカクシ(ポケット)に入れるのだった。
話に夢中になっている大人たちは意に介さずに話を続けていた。 「その○○さんですけど、どうなんですかね。」
「朝っぱらから村の道を掃除して歩いてるってんだけど、そんなことしたってダメだいのーあん人は、ケツメドがちっちゃくってさ」
ちなみに穴のことを「メド」と言うのは、先程の針の穴と、この尻の穴だけに限られている。ケツメドが小さいというのは吝嗇のことだと理解されるけれど、もう少し広い意味で使われている気配も濃い。
※注/三拍以上のア行下一段活用の動詞で見える[mieru]などの場合、連母音[ie]は「ed」となる
★上に
昭和三十年代の初期の頃まで、当時の少年たちは川で良く遊んだものだった。近くの小川では日常的に魚とりをやっていたし、川を堰止めてのケーガリでは雑魚をとって家の池で飼ったり、今ではもう信じられないことだが天ぷらなどにして食べたりもしていた。
夏休みともなれば、毎日のようにみんなして利根川や渡良瀬川へ水遊びに出掛けた。
館林の台宿に住んでいた頃に遊んだのはもっぱら渡良瀬川であった。 川までの距離は三キロほど。子供の足で一時間、といったところだろうか。夏の炎天下のなかを歩いていくのは、少々ツライ。
「あっ、チンチン馬車だ。あれに乗っけてって貰うベー」 一日何往復していたのか知らないけれど、砂利道の街道には人を乗せることもできる荷馬車がチリンチリンと鈴を鳴らして通
っていたのである。 片道の運賃が五円なり。今なら一〇〇円といったところだろうか。その五円がなくて、しぶしぶ歩いたこともたびたびだった。
今ではとても考えられないが当時の川は澄んでいて、魚の種類も多く、群れをなして泳いでいるような状態だった。
川では泳いだり釣りをしたり、水中メガネをつけて川にもぐり、手製のヤスで魚を突いたりするのである。川底も砂と砂利で奇麗だったし川原は砂丘のようになっていて、砂のおかげで汚れることもなかった。
泳ぐのに飽きると砂浜で弁当を食べ、川の水を弁当箱ですくって飲んだりした。 川からの帰り道にはたくさんの桑畑があった。桑の木にはこれ又たくさんの桑の実がなっていた。
イワイル(所謂)「ドドメ」である。見付けると我先にと口にほうり込む。たちまちにして口のまわりは赤紫色に染まり、食べきれない分は空の弁当箱にギッシリになるまで詰め込んだ。
チンチン馬車の五円に不自由するほどに貧しかったあの時代。しかし少年たちは一日中川で遊び、桑畑のドドメをおやつがわりに至福の時を過ごしていたのである。
翻って思うに、今だって桑畑はあるしドドメもなっている。しかし、食べる子供はいない。農薬が心配なのか。或いは又、贅沢になったせいなのか――。
※注/ユはイになる傾向がある。特にアに続く場合。
★上に
以前とりあげた「ミットガナイ」に連絡感を持つ上州弁として、この「ビショッタナイ」が切なさの彼方で朧に佇んでいる。
なぜ朧なのか、どうして、切ないのか――。 離合集散と言えばすぐに政治家のことを連想するが、やはり、季節というか、時代の在りようの変遷が、そこには重くたゆたっている気が、しなくはない。
「そんな、チンドン屋みたいな恰好して、ミットガナイがね。ちったァ普通の恰好したらどうなんだい」
こうしたセリフは、今は昔、大正生まれの母親がツッパリ息子に説教をする場合の決まり文句であった。
「少しは世間体ってのも考えてくれなくちゃ」 今でも基本的には日本人の横並び意識は変わらないにしても、当時は親の世代と戦後民主主義時代に生まれた子供の世代との考え方には、大きな落差があった。子供は自分の個性を第一に考えるのに対し、親は横並び意識に代表される世間体を大事にするという、水と油のように対立する構図が、今よりは色濃くあったと思う。
つまり、個性を前面に出した目立ちたがり屋的ファッションなどは、世間体から言えば、とんでもないことなのだった。
翻って「ビショッタナイ」を考えてみる。この、今やほとんど死語になりつつある上州弁に付着していた時代の気分とは、いったい何だったろうか。
個性化と世間体という対立構図に倣って考えてみると、そこには豊かさと貧しさが相似形の形で対応していることに気付かされる。個性化には豊かさがその背景にあり、世間体を気にする背景には貧しさがあった、ということになる。つまり、世の中が豊かになるに連れ、「ビショッタナイ」という上州弁の影が薄くなっていった気配が濃いのだ。
「ビショッタナイ」は、只単に汚いのではない。そこには「ミットガナイ」ほどにだらしなく、貧乏たらしく不潔で汚い意味が含まれている。
貧しい時代には、その貧しさをなんとか隠そうとするのが、まあ、人情というもの。「ビショッタナイ」と言われない為に、人々は涙ぐましい努力をしていたのだ。
一方、豊かな時代になると、どうなるか。わざとダブダブにはいたルーズソックスに代表されるような、一種のだらしなさ、不潔で汚い恰好が、個性的な、という形容詞を伴ったファッションとして登場してくる。同時に「ビショッタナイ」という言葉がリアリティを失っていくのである。
言い方を変えるなら貧しさから豊かさへの時代の変化のなかで、価値観の多様化がはかられてきた、ということなのだろう。
以上が、切なさの彼方で朧にかすんでいる理由になる。 一昔前なら、多分、今の女子高校生のルーズソックスを見て「ミットガナイ」或いは「そんなビショッタナイ恰好して」などと、世のお母さんは眉をひそめていたに違いない。
★上に